少年は残酷な弓を射る(ライオネル・シュライヴァー) 感想

f:id:biborokutekina:20190226132907j:plain


あらすじ

自由を重んじ、それを満喫しながら生きてきた作家のエヴァティルダ・スウィントン)は、妊娠を機にそのキャリアを投げ打たざるを得なくなる。それゆえに生まれてきた息子ケヴィン(エズラ・ミラー)との間にはどこか溝のようなものができてしまい、彼自身もエヴァに決して心を開こうとはしなかった。やがて、美少年へと成長したケヴィンだったが、不穏な言動を繰り返した果てに、エヴァの人生そのものを破壊してしまう恐ろしい事件を引き起こす。 

エヴァについて

この物語はケヴィンの物語というよりはケヴィンとエヴァの物語といったほうが適切でしょう。物語は終始母親のエヴァの視点で進行していることからも物語におけるエヴァの重要性がわかります。(個人的には主人公にふさわしいのはケヴィンよりエヴァのほうだと思います)この「エヴァの視点」で物語が進むというのが非常に重要で、本作は賛否分かれるタイプの小説ですが、彼女の性格や考えに共感できるかどうかでとらえ方がかなり変わってくるように思います。ということで、本記事ではまずエヴァに焦点を当てます。

彼女は元は世界中を飛び回るバリバリのキャリアウーマンでした。アルメニア系の移民でアメリカは嫌い、しかしアメリカ人のフランクリンと結婚。子供はいませんでしたがバリバリ仕事をしながら幸せな結婚生活を送っていました。

そんな中エヴァに転機が訪れます。

 

 
 エヴァの妊娠

妊娠というと日本では「おめでた」ともいうように祝うべきこと、幸せの象徴であるかのように考えられます。多くの人にとっては確かにそうなのですが、エヴァにとってはそう単純な話ではありませんでした。彼女は子供を作るか作らないかでかなり葛藤します。彼女が二の足を踏んでしまうのは仕事への影響や子育てにまつわる様々な煩わしいことなど、女性の社会進出が当たり前になりつつある現代ではよくある理由でした。特にエヴァは「ジェンダー的役割論に縛られない自由な自分」という姿に誇りを持っているようで、子育てをすることで「理想の自分」であり続けることが難しいのではないかと懸念します。

結局エヴァは子供を持つことを決意しますが、それは子育てという未知の経験をすることで「新しい世界」を知ることができるかもしれないというなんとも活動的なエヴァらしい理由でした。しかしケヴィンが生まれると彼女の期待は裏切られることになります。

 

ケヴィンとエヴァ

ケヴィンが生まれてからのエヴァの生活は苦難の連続でした。特に彼女を苦しめたのが母親としての理想と現実の自分の間にある埋めがたいギャップです。子供を愛し、子供に愛されるという「当たり前」に思える親子関係を築くことができず、まだ幼いケヴィンの相手をすることは学がありプライドの高い彼女には嫌気がさす事でした。失望した彼女は自分が子育てという行為に対して見返りを要求していたという自分の浅ましさに気づき、さらに苦しむことになります。

ケヴィンがもはや赤ん坊ではなくなってからも母子の関係は変わりません。エヴァの目にはケヴィンは人間性にかけ、およそ思いやりや優しさとは無縁な人間に映ります。これについては様々なケヴィンのエピソードがありますが、すべてエヴァの視点から映し出されたもので、信ぴょう性については微妙なので触れないでおくことにします。

 

エヴァという人間

エヴァの息子は多くの罪なき人々の命を理不尽に奪いました。この事件について作中でいくつも「なぜ?」と問いかけられています。この事件の責任は母親であるエヴァにもあるのでしょうか。彼女は母親として欠陥を抱えていたのでしょうか。そして、エヴァはケヴィンを愛していなかったのでしょうか。

ケヴィンが生まれてから事件を起こすまで、エヴァはケヴィンを理解することができませんでした。もっとも親子とはいえ親が子を完璧に理解することは不可能です。しかしながらケヴィンはおよそ無邪気さ、(大人の想像する)子供らしさを持ち合わせていなかったのは事実で、彼の「ズレ」は彼女にとって恐怖でした。彼女の子育てに間違いがあったこともおそらくその通りでしょう。彼女は恐怖から子供と向き合えず、親として愛情を注ぐことができなかったかもしれません。しかし彼女の親としての欠陥が事件を引き起こす一助となったと断じていいものでしょうか。

子供の起こした事件に親はどこまで責任を負うべきなのか。凶悪な少年犯罪が起こるたび議論されてきたテーマです。20歳になると「大人」と認められるこの国ですが、何歳になろうと親から受けた影響は残り続けるでしょうし、我々のどこからどこまでが親からもらったものなのか線引きすることは難しいです。そもそも親といっても、人生で子育てをする人数なんてせいぜい多くて4,5人ほどで、プロフェッショナルといえるほどの経験がある人はほとんどなく、子供の数だけ子育ての種類があることを考えると子育ては難しいものです。「子供はかわいいもので、愛すべき存在」という一般論に対して、エヴァの具体的状況はどうでしょうか。エヴァには愛する夫も子供もいたのに、とても孤独でした。彼女にとってケヴィンの子育ては戦いであり、夫のフランクリンはケヴィンの良き理解者とは言えません。それでも彼女は、最善のやり方だったとは言えないかもしれませんが、母親としての務めを全うしようとしました。自分はどうしても意志薄弱な人間なので、もし自分の子供がケヴィンのようであったらと考えると良き親になり子育てを果たせる自信がありません。なので本書に対する批判としてエヴァの冷酷さが挙げられているのを見ると違和感を感じてしまいます。母親が子供を無条件に愛することができるという考えは残念ながら幻想であり、想像力が足りないものと思わざるを得ません。むしろそういう考えは子供をうまく愛せずに悩んでいる母親たちからすると思いやりにかけるものなのではないでしょうか。

しかしエヴァが子供を愛する能力がなかったというわけではありません。第2子であるシーリアが生まれると、エヴァは普通の親子と変わらず娘に愛情を注ぐことになります。ケヴィンに注げなかった愛情を埋め合わせるように。もしかしたらこのような愛情は不健全かもしれません。子供らしいかわいい子供にだけ愛情を注ぐのは独善的ともいえるでしょう。(失明事件が象徴的です)

私はエヴァという人間はごく普通の間違った母親だと思います。完璧な子育てというものは存在しません。母親の数、子供の数だけ子育てがあり、それぞれの関係があります。母親はそれぞれの問題を抱え、時には間違い、後悔します。エヴァが他の母親と違う点は息子が大量殺人者になってしまったという点ではないでしょうか。

 

ケヴィン

エヴァがケヴィンのことを恐れていた理由としては、何を考えているかわからない、人間らしい感情が欠落していることが挙げられます。知能が高いことからもケヴィンはかなりサイコパス気質が強かったことが伺えます。(私は精神疾患には詳しくないので漫画やアニメから得た知識ですが。)この手のサイコパスの特徴として罪悪感の欠如があげられます。しかし欠けているのは罪悪感だけではありません。ケヴィンが心から喜んだり楽しんだりしているシーンが本書に描写されていないことからもわかるように、幼少期から感情の動きに乏しいです。それは彼の知能が高すぎたがゆえのことかもしれません。普通の子供であれば未知でわくわくするようなことでもケヴィンの目には種のわかっている手品のようにくだらないものに映ってしまうのです。これは彼の倫理観に大きく影響を及ぼしていると思います。

通常私たちがこどもに「してはいけないこと」を教えるやり方としては悪いことをすると罪を償わなければならない=罰を受けるからと説明します。刑罰がなければ法律は機能しません。ではケヴィンにとって罰とは何なのでしょうか。かれは大量殺人を犯した後、刑務所に収監され、自由を奪われました。しかし彼は自由などというものを持っていたとしても、それを謳歌できるような楽しみを見つけるすべを持ちません。悪さをした子供のおもちゃを取り上げたところでそのおもちゃが子供にとってどうでもいいものであれば反省も後悔もしません。そもそも何かを奪われたり傷つけられたりする痛みを理解できない人物に本当に改悛させることは不可能なのかもしれないのです。エヴァはこの点について、どうすればケヴィンに罪を教えることができるか頭を悩ませていました。

しかし、実際にそのような人物は存在しうるのでしょうか。ケヴィンはもともと何かを成し遂げようという野心や目的意識からは縁遠い人間で、将来の夢を聞かれても「生活保護で暮らす」と答えるような子供でした。何をやっても楽しみや充実感を感じられないならそれも当然のように思います。それならば、彼は大量殺人という「大仕事」をどのような目的で成し遂げたのでしょうか。この問いは作中で繰り返し問われ続けました。自分はほかの凡人とは違うという決意表明なのか、歪んだ恋慕の結果なのか、あるいは単なる気晴らしなのか…

「事件」の起こった後、エヴァはケヴィンが落ち着いた、そしてどこかつまらなさそうな表情をしていたといいます。想像するしかありませんが、彼は自分にかけたものがあることを承知の上で、人間らしい何かが欲しかったのかもしれません。殺人は人間らしさの枠外の行為です。しかし、人間としての禁忌の領域に足を踏み入れてもなお「こんなものか」としか思えないかれは、後悔や喜びといった人間らしい感情を一瞬たりとも経験することができず落胆したのかもしれません。(人を殺して人間らしさを得るというのもおかしな話ですが)

彼が殺害対象に選んだ人々をおびき寄せるやり方は独特でした。彼らは性質の違いあれど称えられるべき取り柄を持った人たちでした。彼らの功績や名誉そのものは、ケヴィンにとって無価値なものでしたが、そういった無駄なものにひたむきになれる彼らの人間としてのエネルギーは彼の嫉妬を買ったのかもしれません。この事件をケヴィンの自身の非人間性に対する復讐のような、非常に人間的な悪意に満ちた事件とすることは危険ですし、少しずれているような気もします。そもそもケヴィン自身が事件から数年たって「あの事件を犯した理由が自分でもわからなくなった」と言っていることからも動機を断ずることは難しいでしょう。

ここまで彼の非人間性をあげつらってきましたが、そんな彼が唯一執着を見せたものがあります。それが何を隠そう彼の母、エヴァです。もっともそれが本当に執着だったのかはわかりません。ただ何を見ても心動かされることのなかった彼にとっては唯一興味を持つ価値のあるものだったことには間違いないようです。思えば彼の母親への振る舞いは特別なものでした。学校の人間には心を閉ざし、父親相手には理想の息子を演じた彼ですが、エヴァ相手には比較的「素」の自分を見せ、悪意とはいえ感情らしきものを見せていました。彼は母親を「観客」と呼んでいましたが、(正確な言葉は忘れた)たぶん彼自身も母親に対する感情が何なのかはわからなかったのでしょう。なぜ自分が多くの人々の命を奪ったのかわからないように。

この物語はそんな彼が「変化」して終わります。これまでの無機質な性質とは打ってかわり、自分の弱みをむき出しにして母親と会話する姿は、大量殺人者であるとはいえ胸を打つものがありました。結局のところ彼が母親を愛していたのか、なぜ事件を起こしたのか、母親はこの事件に責任を持ちうるのかすべてはわからないままです。子供をうまく愛せなかったエヴァ、そんなエヴァを理解し支えられなかったフランクリン、どこか人間性に欠けたケヴィン、結局皆何かが欠けている人間だったのだと思います。ケヴィンの身勝手さは正直擁護できませんし、許しがたいものです。私がこの物語を読むうえで一番感情移入したのはエヴァでした。しかしこの物語の終りに、やっとケヴィンとエヴァの物語が始まったという思いを持ちました。彼らのゆく人生は罪の贖いなのか、再起への道なのか。本当に考えさせられる話でした。