浮世の画家(カズオ・イシグロ) 感想

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あらすじ

戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名を成した画家の小野。多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたんに周囲の目は冷たくなった。弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷にこもりがちに…老画家は過去を回想しながら、自らが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる。―ウィットブレッド賞に輝く著者の出世作

 

 浮世とは

本作のタイトルにもなっている「浮世」という言葉はそもそもどういう意味なのか。辞書的には次のような感じになります。

〔憂き世(つらい世の中)と浮世ふせい(はかない世の中)の二つの意味が重なり合った語〕

 つらくはかないこの世の中。変わりやすい世間。 「 -の荒波」
 今の世の中。俗世間。現世。 「 -の義理を果たす」 「 -のしがらみ」
 名詞の上に付いて、当世の、現代風の、好色な、の意を表す。 「 -草子」 「 -人形」 「 -絵」

 

 この物語の主人公は画家なので「浮世」といわれると浮世絵がどうしても頭をよぎるのですけれども本作とはほとんど関係ないようです。(表紙の絵が思いっきり浮世絵なのでミスリードもいいとこです)

本作で主に意図される意味としては①が近いですかね。この儚い世の中において変わらないでいられるものなんて存在しない。倫理観も正義も愛や情熱ですらも…ある時代には不変と思われていたものですら、いやむしろそういうものこそ変化するものです。祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色…全ての物は移ろい、変わりゆく儚いものに「美」を感じるのは古来より受け継がれてきた我々日本人の性。この「浮世」という言葉もそれを表しているようです。(余談ですが浮世って英語でfloating worldっていうみたいです。ド直訳)

この物語は第2次世界大戦が終わり、あらゆる面で変わり始めた日本。これまでにないほど急激に価値観が変わった時代といってもいいでしょう。戦時中は敵を殺せば英雄ですが平時であれば犯罪者です。それだけでなく戦時中、加えてその少し前あたりから日本は極端な国家主義をとりました。軍部が力を握り、万事「お国のために」が合言葉となる異様な熱気が渦巻いた時代でありました。この時代において正義とは日本が戦争に勝つために身を投げうつことであり、お国のために人を殺し、自らが死ぬことは美しく正しいことでした。今から考えれば異様な思考ですが当時はこの考えが正しいことは世間から当然のように受け入れられたもので、それを受け入れさせてしまうような特異な緊張感が日本全体にあったことは留意しなければなりません。

しかしこのような価値観は日本が戦争に敗れると同時に廃れていきます。正しかったことは見過ごせない過ちとされ、愛国心を持った模範的とされた人物は戦犯と糾弾されるようになりました。この辺はは作中の「平山の坊や」のエピソードによく表れています。平山の坊やは悪気のない人間でしたが少し頭の弱い人間でした。誰に教え込まれたのか道端で軍歌歌ったり愛国的演説をぶったりして(当人はその言葉の意味が分かっていないでしょうが)戦時中は名物男としてもてはやされました。しかし、戦争が終わり、同じことをしていると、時流にそぐわない、危険思想をばらまく人物と非難されます。本人には特に政治的イデオロギーを持っていたわけでもなく、ただ褒められたからという純粋な理由で同じことを繰り返していただけなのに、周囲の反応が正反対なのは価値観が大きく変化したことをよく表しています。

主人公である小野が陥った苦境もこの状況によく似ています。小野もよく言えば純真、悪く言えば世間知らずな性格で、そういった性質は芸術家として大いに有用ではありますが、時には誤った方向に強引に進んでしまう危うさも持っています。彼は心の底から自分の芸術で日本精神を鼓舞することが正義であると信じており、そういった純真な心から生まれた芸術活動は戦時中はもてはやされましたが、戦争が終わり、世間の価値観が変わると周囲の目が冷たくなります。

この周囲の変化こそが「浮世」であり、芸術家として己の信念を貫き、変わらない小野と対照的です。

この物語を語るうえで主人公が芸術家であることの意味は大きいと思います。芸術とは現実を映し出したものですが、日々移ろいゆく浮世の現実とは違い、そこに形作られた芸術は永遠に変わらないものです。変わるのはそれを鑑賞する私たちの目、価値観にすぎません。

例えば小野さんの師であるモリさんの作品は娼館など、浮世離れした世界の耽美的な美を描き出したもので、イデオロギーや正義とは縁遠いもので、いつの時代も不変のものであります。しかしこのような「美」は現実離れしたものです。そこに描き出されたような美は現実のそれと完全に一致することはあり得ず、その「美」の世界にしか存在しないのです。そこに芸術と現実の間に齟齬が生まれます。小野の描いた作品は少し趣が異なるようですが、彼の作品も彼自身の精神世界を映し出したもので、そこに当時の現実を完全に表現するというのは土台無理な話です。

この齟齬―ずれは芸術と現実の間にとどまりません。この物語は小野の語りで進められるのですが、記憶と実際に起こった出来事、そして自己評価と周囲からの評価にも「ずれ」があります。そもそも本人の語りからして男らしく自分の過去の過ちを反省しているように見えて自己弁護や自尊心が透けて見えます。意地悪い言い方をすると「反省している」というポーズをとることで自分の自尊心を満たそうとしているようにも見えます。自分を謙虚だと思うことは相当傲慢なように思いますが、この爺さんは素でそれをやっていそうです。

だからといって小野を責めるのは酷なことです。自分について語ったり、自分を評価したりすることはプライドやらバイアスやらが邪魔して実際かなり難しいことです。過去の記憶も自分が思っている以上にあてになりません。しかしそうなると自分をとらえることは困難を極めるといわざるを得なくなります。周囲からの評価は時流の変化によってかわり、今と100年後で正反対の評価を下される人物は多くいることでしょう。しかし、自己評価があてにならないのは先述の通りです。ならば「正しい自分」というものはどこにも存在しない幻想にすぎないのでしょうか。

ここから個人的な意見です。時代が絶えず変化しているというのは確かにそうですが、時代の変化と同じくらい自分というものも変化しているはずです。変わりたくなくても年月を重ねるにつれ大人になったり、物の見方が変わったり、もしかすると決して曲げたくないと思っていた信念も気づいたら曲げてしまっていることもあるかもしれません。人間生きている以上どこか変わらなければ生きている甲斐がないともいえるかもしれません。小野もあまり変わっていないように見えて、常に変わり続けているはずです。なにしろ自分そのものもこの浮世の一部なのですから。しかしその当時の自分の信念、価値観、正義があらわれたものこそ彼の作品であり、それは不変です。本作では過去の自分の信念が現在の自分を苦しめているわけです。

戦争が終わり、さらに「戦後」と呼ばれた時代も終わろうとし、ラストシーンの大型ビルに象徴されるようにこの浮世はまた大きく変わろうとしているところで終わります。この世界はいまもなお変わらず変わり続けています。価値観の変化、正義すらも変わりゆくこの世の中で、自分とはなんなのか、どう変わり、どう変わらないのか。それを考えさせられる作品でした。